つべこべいわずに休息せよ

まわりが自分よりもずっと優秀な環境に長らく身をおいています

そのような環境に身を置くと不思議なことに「じぶんも彼らと同じくらい優秀なのではないか」と錯覚を覚え始めます。

やっかいなのはそこに「タフさ」「勤勉さ」なども追加されていき、彼らと同じストレス強度を獲得したような気にさえなっていき、知らぬ間に自分では収集のつかないことになっているのです。

 

そもそもわたしは、そこまで優秀でもなく、勤勉でもなく、物事を深く考えるのも苦手で、体力はめちゃくちゃない人間です。

 

加えて空気を読まずに衝動的に行動、発言するような面があり、コミュニケーションをとるのに相手をギョッとさせることもしばしばです。

よってあまり深い人付き合いも得意ではありません。

 

しかし周りは怒涛の仕事スケジュールをこなし、自分のプライベートを諦めず、それどころかより良いものにする努力を惜しまず、趣味の分野でも精度を追求するような生活をおくっています。

それが周囲の当たり前なので、わたしもできるのではとなぜか勘違いしていた時期がありました。

 

無理すれば、努力すれば、それなりの結果が出ると。彼らがしているようにすれば。と信じていたのです。

なんでかというと、その環境に身を置くために無理と努力をしたわけだからですが、今考えればその成功体験を引きずりすぎだろうと思います。

 

無理を重ねます

時間を削ります

家族への連絡が億劫です

友達と遊ぶ時間を捻出するのもめんどくさいです

睡眠をないがしろにします

 

その結果、何が起こったかというとご飯が食べられない、眠れない、胸のザワザワが常にとれず、なんにも自分では決められなくなりました。無気力な割には妙に攻撃的になる瞬間があります。

しかしこの感覚は「どうしてこんなことに…」ではなく、「とうとう捕まってしまった」といったものでした。

常に不安定な状態だった均衡が崩れていったような感覚です。砂のお城がもろもろと波にさらわれていきます。

しかし判断力が鈍っているので、ここで何かをセーブしようとかそういうような気持ちにはなりません。

 

なぜか元気なときには交流のなかった人間が近付いてきます。

「〇〇に行こうよ」となぜかひっきりなしにお誘いが来てたのはこの時期でした。空気を読まないモテ期だったのかもしれません。

 

思考速度が低下しているのに、考える時間を放棄して、誘いのために時間を割きました。コミュ障なのに。

 

しかし、とうとうベッドの上で起き上がれなくなった日に、なんにも自分では決められなかったので、家族に相談し、家族に休息をとる許しを乞い、いったんすべてをストップすることにしました。

 

ご飯を食べる(といっても、最初はスープの上澄みを啜る程度)、寝る、起きる、ご飯を啜る。

たまに友達と話す。家族と話す。という日々を送ります。

何かが好転したような感じはありませんでしたが、時間がゆっくりと流れていき、ご飯はまあまあ食べられるようになりました。

人生に急ブレーキがかかり、その反動に身を任せているような期間でした。

 

ああ。わたし以外、だれもわたしのことを守れない。

わたし以外がわたしの本当の能力や限界をジャッジすることもできないし

わたし以外がわたしのことを無理させることも甘やかすこともできない。

 

人生で早々に気付いておきたかった事実に、痛い目を見てようやく気づきました。

わたしはさほど優秀ではないどころか、まあまあ愚かだったようです。

 

わたしの周囲はわたしの身を案じ、献身的な人ばかりでしたが

あの頃、わたしに「つべこべいわずに飯食って寝ろ」と言った人はいなかったように思います。

居たらごめん。

たぶん、ほんとうは、そんなことは自分で決めなければならないのでしょう。決められない場合は然るべき機関にかかるべきなのでしょう。

それもできないくらい視野が狭窄しておバカさんだったのと今ならわかります。

 

毎日、車にひかれて死ぬとか、歩行中に意識を失って倒れるいう想像をしていましたが、休息はその妄想もゆるやかに消していきました。

 

今はまた、優秀な人たちに囲まれて、それなりに元気に生きています。

 

自分の能力を過大評価も過小評価もしないように(これが難しいわけですが)

無理は少々しながら、自分の人生に付き合っています。

能力に関して言えば、人ができて自分ができないことがあっても不貞腐れず、自分にできること探そう、てなっています。

 

つべこべいわずに休息せよ。という選択肢をゲットしたわたしは以前よりも、ずいぶん気楽で能天気です。もう同じ状況にはなりたくないけど、次はタイミングは自分で決めるぞ。だってわたしのことはわたししか分からないんだから。と思いながら、今日も生きています。

 



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結婚式は必要か

先日、結婚式をした。

結婚(入籍)は人生にとって必要か、結婚式というセレモニーは人生にとって必要か。

その答えは未だにわたしの中で出ていない。

 


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結婚という形式をとらなくても一緒に生きていければいいし、結婚式をしなくてもみんな結婚したって知ってるし(入籍して1年以上たってる)、知ってる人はお祝いもたくさんしてくれた。

 

入籍のときもそうだったのだけど、要はやらないとまわりの人から妙にプレッシャーをかけられるというのがあった。ただ、入籍も結婚式もやると決めればピタリとそういうノイズは止まる。

そんなわけでみんなが納得する形に収まるなら入籍ぐらいしとくか、ってなノリで入籍はした。

ノイズはないほうが生きやすいし、自分のまわりの人には極力幸せでいてもらいたい。

 

問題は紙一枚ではすまない結婚式である。

 

式を挙げない人や写真だけですませる夫婦も多い中、私は「挙げなくてもまあいいかな」派。旦那さんは「お世話になった人が多いので積極的にやりたいわけではないが、やった方が結果的にはいいのではないか」派であった。

 

極力みんなの納得いく形をとった方がまわりがうるさくならないから生きやすい

というスタンスだったとしても、結婚式にかける時間とお金はそれに見合ったコストパフォーマンスなのかどうか問題がここで持ち上がる。

 

とりあえず、いろいろ話し合った結果

結婚報告したい人を一人一人訪問するよりはコスパはいいだろうし…と、やることを前提として動こうということで色々リサーチを始めた。

プロポーズされたらゼクシィ、でお馴染みのゼクシィも購入した。あまりの重さに家に帰ってから体重計で重さを計ったら、新生児くらいあった。

 

いろいろ調べていくうちにあまりの情報の多さに気持ち悪くなってきた。

 

結婚式という形をとるだけならパッケージされたものに乗っかるのが一番省エネで簡単であろうに、なかなかわたしの踏ん切りがつかなかった。

 

それはなぜか。

 

どうせお金と時間をかけるならいろいろこだわりたいという願望が出て来たからである。

 

んじゃまあパッケージされたものに乗るよりは自由度が高いだろうということで、いろいろ自由にプランニングしてくれると評判のプランナーさんにも会って見積り出してもらったりもしたが、なんだかしっくりこない。

二人のなれそめとか、お互いがどう思ってるかのヒアリングとか、ふわふわキラキラした部分を無言の行間の中に求められてるような気がして、そういうのが辛かったような気がする。被害妄想かもしれないけど。

 

なれそめも好きな部分も聞かれればいつでも話せるし、恥ずかしいわけじゃないけど、そういうのはいらないんだよなあ。とも言えず。

 

ただ我々の結婚式に対する微妙な温度感やニュアンスを伝えるスキルがなかったため

何度か連絡いただいたが、結局はお断りし結婚式計画は振り出しに戻ってしまった。

 

その後一ヶ月、なんとなく話は進まず時間が過ぎていった。

 

プランナーさんからもらった見積り書はかなり詳細で、アートディレクション代にこれくらい、ヘアメイクにこれくらい、カメラマンにこれくらい、会場使用料がこれくらいと項目ごとに書いてあった。

 

正直なところ払えなくないけど、結構高いのねえという感想だった。

 

それを見ながら、これ自分達の好きな人だけで全部やりきれば気持ちよくお金払えるなあ…みんな私達の好きなものもよく知ってるし、絶対外したもの提供されることないしなあ…という思いが沸いてきた。

 

ヘアメイクもアートディレクションも音響もドレスもわたしのまわりの人で全部できる人いる。

 

そもそも旦那さんも自分で音楽イベントを取り仕切っていたような人なので、イベント企てるのは不得手ではない。

 

お?これは?

 

今まで出会って来た人を巻き込んで作ったら最高のパーティーになるんじゃないか!?って思い付いて旦那さんに提案したのが、インスタグラム遡ったら去年の夏でした。

 


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 これうぇーいって写真。旦那さんのパーティーの写真です。

 

InstagramTwitterでスタッフ募集したところほんとに大体集まってくれたのがまじでありがたかった。

カメラマン、音響、DJ、ドレスメーカー、アートディレクション、ヘアメイク、バンド、お花やさんなどなど…唯一司会の人だけは知り合いではない方にお願いしたけど笑

 

話は変わるけど、我々はミニマリストととまではいかないけどかなり物が少ない状態で暮らしていて

シンプルだけど豊かでいることを割りと重視して暮らしていて

そういう我々の感じが伝わればいいなあというのもあってパーティーのテーマはLess is moreとなったんだけど

これは建築家のミース・ファン・デル・ローエっていう巨匠がいて、その人の言葉でずばり日本語訳で「少ないほど豊かである」ってことなのです。

 
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で、そのテーマに沿う一環として今回取り入れた要素が

 

・Web招待状で出欠管理

・クレジットカードで会費決済

・引き出物なし

・指輪交換なし

・馴れ初めエピソードビデオなし

・ケーキカット、ファーストバイトなし

・ポケットに入れられる最小サイズの引菓子は配布

・歓談の時間多め

高砂なし

 

他にもあるような気がするけど、コンテンツはかなり絞った。パーティーの時間も二時間ちょっと。二次会もなし。レストランでの立食形式で会費制。

 

うまくいくのがどうか分からないけど、とりあえずこんな感じでようやくプロジェクトが始動したのが去年の秋くらい。

 

家族にアートディレクション頼んだり(会場設営はうちの家族全員と友人でやった)

友達にドレスをオーダーメイドで作ってもらったり(着たいと思うドレスがなかったから)

バンド演奏したいのでバンドメンバーに許可を得たり、お世話になってるライブハウスに音響頼んだり

DJしてくれる友人にパーティーで流す曲を選んでもらったり

旦那さんの行き付けのお花屋さんやヘアメイクさんに自分のイメージとこだわりを伝えたり…

 

当日来てくれた人は納得してもらえると思うけど、本当に我々らしい、我々にしかできないという形に収まったと思う。

今まで出会ってきた人達のおかげで。

 

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旦那さんは相変わらず目を離した隙にうぇいしてた。

 

終わってから、これならやって良かったとようやく納得できたし

これ以外の形だったら納得いかなかったなとさえ思う。

 だから結婚式なんて、今でもよく考えて、よく調べても、納得する形にできなければしないほうがいいと思っている。

入籍もそう。

たとえまわりがうるさくても、だ。

 

自分のなかの幸せの定義を、入籍のときも考え考え考え抜いたように

今回もまた結婚式をやる意味から考え直したし

結婚式の在り方も自分の納得いくまで考えた。

誰かが定義してくれた既存のステレオタイプの幸せに乗っかれない不器用な性格で、この問題は今まで何度も何度もぶつかってきたけどまさか結婚式でもぶつかるとは思ってなかった。

 

だから今回の形に限っては結婚式はやって良かったと思う。

ほんと、今回の形に限っては。

 

自分の幸せについて考えて言葉や形にするのって難しいし

それが当たり前じゃない形だったときにプレゼンテーションする能力を身に付けておく必要があるなあと思ったイベントでした。

 

旦那さんはうぇいしながらも、結婚式中にものすごい勢いでものすごい量の事務仕事を終わらせて、またうぇいしててすごいなあと思う。

 

 

幸せになろうぜ。

 

おしまい。